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WR2309 日中戦争の問題点を検証する(第79話 ゾルゲ事件(下)) -尾崎グループが目指した日本の理想の姿とは東アジアの共産化である。満洲、支那、日本、ソ連が共産圏をつくり、それを核にして周囲の国々を共産国にしていこうとするのである。そのためには日本が蒋介石政権と和解せず、支那事変を長続きさせることで中国共産党と八路軍を強化させることをもくろんだ。

(2006/7/14)

歴史研究家:岡崎溪子



            第79話 ゾルゲ事件(下)

 尾崎グループが目指した日本の理想の姿とは東アジアの共産化である。 満洲、支那、日本、ソ連が共産圏をつくり、それを核にして周囲の国々を共産国にしていこうとするのである。 そのためには日本が蒋介石政権と和解せず、支那事変を長続きさせることで中国共産党と 八路軍を強化させることをもくろんだ。 汪兆銘は蒋介石が共産党と組んだことで危機感を覚えていた。 日本との和平を望む汪兆銘の純粋な心情につけ込んだのが、尾崎グループである。 汪兆銘は1940年(昭和15)3月30日に南京国民政府を樹立し、 政府主席代理・行政院長・軍事委員会委員長・海軍部長代理に就任した。 「梅工作」となづけられたこのプランを遂行したのが、陸軍の統制派の影佐大佐と、 共産主義者の松本重治、犬飼健代議士と西園寺公一である。 もちろん汪兆銘工作の首謀者は、近衛の最高政治幕僚、尾崎秀実であった 汪兆銘は自分の意思とは反対に中国共産党の党勢拡大に利用されたのである。

日本の共産党員が盲信していたスターリンに対してゾルゲは疑惑を抱き始めていた。 スターリンの粛清の噂はゾルゲの耳にも入ってきていた。 1935年(昭和10)夏、ゾルゲはコミンテルン第7回大会の最中、モスクワに2週間ほど 一時帰国していたが、友人に、 「ロシア人のためにスパイをするのはもううんざりなのだが、どうやったらそこから抜け出し、 新しい生活を始められるのかわからない」 「ソビエトにいても危険を感じているが、ドイツに帰国したらゲシュタポに逮捕されてしまう。 …日本に戻るほか道はない」と語っている。

1937年(昭和12)11月、アイノ・クーシネンもゾルゲグループもモスクワから召還 命令がでた。 アイノはオットー・クーシネンの夫人である。 オットーはフィンランド共産党の創立者の一人で、フィンランド人であったが、 スターリンから帰国を許されず、ソ連共産党の能吏として、スターリン時代も、 その後のフルシチョフ時代もソ連共産党の最高幹部であり続け、1964年に死去した人物。 とりわけ彼は日本の革命運動の最大の綱領的文書であった「32年テーゼ」についての コミンテルン執行委員会での報告者として日本ではよく知られている。
アイノは岡田嘉子と同じ東京九段の「野々宮アパート」に住んでいた。 いまでいう豪華マンションで、「スエーデンの女流作家・エリザベート・ハンソン」 の偽名で2年間スパイ活動をしていた。 アイノの協力者は東京朝日新聞の中野記者と「ジャパン・タイムス」の上原記者である。 両新聞で書き立ててもらって有名になり、皇居の園遊会に招かれたり、 秩父宮にも会ったりして上流階級からの情報を入手していた。 アイノは日本でマスコミに受けるために1935年に一度ストックホルムに行き、 1936年スエーデンで『微笑む日本』を出版し、それを持って再来日した。 この本は日本を賞賛して軍部や日本人の心をだます目的で書かれたものである。

そしてもう一つのアイノの使命は昔馴染みのゾルゲの監視であったのだ。 ところがソ連に帰ったアイノ・クーシネンを待っていたのはスターリンの粛清により、 16年間の獄中や強制収容所での迫害であった。 アイノの夫オットー・クーシネンは、逮捕された妻を見殺しにして、 ソ連での自己保身と延命の道を選んだ。 すでに多くのフィンランド共産党の「同志」を切捨て、コミンテルン東洋部のサファロフ、マジャールの他、 日本人を含む多くのコミンテルン活動家を、ソ連の秘密警察に売り渡していた。 だから1964年に死んだ時には、ソ連共産党中央委員会政治局員まで出世していた。

ゾルゲは何かと口実をつくって帰国命令を拒否した。 この時点でゾルゲはモスクワに帰れば命がないと悟ったのではないだろうか? 日本にいれば、近衛首相をはじめ多くの権力者の理解がある。 自分を守ってくれるのではないか…?と、期待して日本を選んだと思われる。 ゾルゲは1944年11月のロシア革命記念日に、東京で死刑台へと送られた。 もしもゾルゲが、アイノと一緒に1937年末にソ連に帰国していたら、 その処刑の場所は、東京ではなく、モスクワになっていたのは確実である。 そして日本は米英との戦争を回避できたであろう。
当時のスターリンは「ドイツ人はみなスパイだ」と粛清していたからである。 ドイツ大使館を安心させるためにナチの党員になっていたゾルゲをスターリンは「二重 スパイではないか」と疑っていた。 ゾルゲの妻ロシア人女性カーチャは、1942年に「ドイツのスパイ」として逮捕・粛清され、 翌年に流刑地で死んだことがKGB文書館資料で確認された。 日本の獄中のゾルゲは、そのことを知る由もなかった。

1938年(昭和13)1月3日、岡田嘉子(34歳)と杉本良吉(30歳)が吹雪の樺太(現・サハリン)の国境線を越えて、 ソ連領に入り亡命した。 日露戦争後の1905年(明治38)ポーツマス条約で樺太の北緯50度以南を日本が領有することに決まっていた。 国境の敷香(シスカ)の町で馬ソリから飛び降り二人で雪のなかを泳いでソ連国境に向かう。 スキーをはいた国境警備官が追いかける。 カバンもセーターも投げ捨て、必死で向こう側の白樺林に逃げ込む。 ついに二人はソ連領に入り、亡命は成功した。
有名な女優と舞台演出家の逃避行はマスコミに大きく取り上げられた。 軍国主義日本での演劇活動に絶望した夫と子供をもつ岡田が、 病妻のある杉本をひっぱってソ連に新天地を求めた文字どおりの「恋の逃避行」だった。  岡田嘉子は人形のようで自由のない日本での女優生活に辟易しており、新天地での活躍に希望を持っていた。
杉本は日本共産党員で、支那事変が始まっており徴兵を逃れる目的と、 ソビエトの演出家メイエルホリドのもとで演出を勉強する目的で、国境を越える決断をする。 国境を越えて程なくソ連の国境警備隊に捕まった二人はスパイ容疑で別々に拘束され、 非共産党員の岡田嘉子は1939年9月に最高裁判所の判決が出て10年間の強制収容所送りになる。 強制収容所の女性の運命など哀れなもので、監視官や同じ囚人の慰みものだった。 同じ日に判決を受けた杉本良吉は1939年10月に銃殺になるが、岡田嘉子には病死と伝えられた。
20年後に岡田嘉子は真実を知ることになる。 1989年、ソ連国家保安委員会(KGB)の調書が公開され、驚くべき事件の真相が判明した。 杉本良吉は拷問によって強制的に嘘の自白をさせられたばかりか、1937年までモスクワにいた 日本人演出家、佐野碩、土方与志もスパイであると自白を強制された。 当然かれらが尊敬するソ連のメイエルホリドも「スパイの手先」ということになり、逮捕 され、処刑された。 彼らはもちろんスパイではない。

日本でのゾルゲをよく知るフランスの記者がいる。 彼の名はロベール・ギラン、「アヴァス通信社」の東京特派員である。 アヴァス通信は当時のフランスにおける大通信社で、現在のAFPの前身である。 1937年(昭和12)に外信部長より上海特派員を命じられた。 彼はさっそくフランスからドイツ、ポーランド、を通ってモスクワに行き、そこでシベリア鉄道に乗った。 モスクワで彼が見たのは貧しさに打ちひしがれてただのろのろと歩く貧民たちであった。
「何を考えているのかわからない顔ばかり。 目を和ませてくれる容貌はどこに見えず、 感じのいい娘や青年の顔とてなく生きることの過酷さを免れているように見える顔立ちもない。 どの顔にも刻印が感じ取られた…」
イルクーツクでは収容所送りから落ちこぼれた集団が三等車に乗り込んできた。 彼らは極北へ送られる人々である。 ノボシビルスクでは貨車の中にぎっしりと詰め込まれた白人の集団を目撃した。 貨車の内部は三段に仕切られていて寝床があるだけである。 このような貨車を満洲里に着くまで何度も目撃した。 時には大きな赤い星がついた剣先付きの鉄兜をかぶったままの一団が寝床もなくぎっしりと詰め込まれていた。 警察官か、収容所の衛兵たちであろう。 チタでは鉄条網に囲まれ、監視塔のある収容所が列車内からも見えた。

上海で日本特派員の欠員ができたので1938年(昭和13)4月に彼は来日する。 アヴァス通信の事務所は銀座にあった。 前任者のジャック・デショからユーゴスラビア人の助手、ブランコ・ド・ヴケリッチが 紹介された。 そう、彼こそ、ゾルゲと共に日本でスパイ活動をした人物である。 当時はほとんどの国は特派員を一名東京に派遣するのが精一杯で、 予算の多い外国の報道部を手伝いながら自国へのニュースを配信していた。 ヴケリッチは1933年に日本(横浜に上陸)にやってきてまんまとフランスの最大の通信社にもぐりこみ、 ゾルゲに情報を送っていた。 祖国ユーゴスラヴィアの新聞『ポリティカ』に日本を紹介する記事と写真を送るという ふれこみである。
もちろんヴケリッチも共産党員である。 まだ30歳のロベールは何の疑いもなく公私共にヴケリッチと親密になった。 ヴケリッチは同行してきたデンマーク人の妻と別れて1940年1月に山崎淑子と 結婚し、子供をもうけた。 しかし、それは日本の警察の目を欺くためで、その新居はスパイたちの無電連絡所と して使われた。

ゾルゲの供述調書では「私は女性を利用したことはない」と言っているが、大嘘だ。 ゾルゲはドイツに妻がありながら日本で石井花子を愛人にしている。 日本では外人は目立つので日本女性と同棲することで「親日」のポーズを取ったのだ。 共産党員にしなかったのは秘密が漏れるのを防いだだけで、女性の側から言うと 「利用された」ことにはなんら変わらない。
こうしてドイツとフランス、日本の政治・軍事情報はすべてソ連に筒抜けであった。 特にフランスはヨーロッパ全体の情報を掴んでいたから、ナチス・ドイツに対して ヨーロッパ各国がどのような対応をするのか、同盟は組まれるのか、いつから軍事 行動が行われるのか、 つまり第二次世界大戦が起きるようにするためには何が不足なのか、 スターリンはモスクワの自宅にいながらすべてを理解していた。 そして世界大戦となるように各国の共産党員に指令を発していたのである。

このころの日本共産党は1928年(昭和3)の3月に起きた「三・一五事件」によって 日本から脱出する党員が多かった。 昭和3年の2月、第1回の普通選挙が実施されたが、社会主義的な政党の活動に危機感を感じた政府(田中義一内閣)は、 3月15日、治安維持法違反容疑により全国で一斉検挙を行った。 日本共産党(非合法)、労働農民党などの関係者1000人以上が検挙された。 共産党は残った党員が地下にもぐって活動を続けていたが、外国に逃げた党員は逃亡先の 国の共産党員になったのである。 当然共産党の本家であるソ連に亡命してソ連の共産党に入った日本人も多い。 野坂参三、片山潜、山本懸蔵、山本正美、源五郎丸芳晴らがいる。 ソ連共産党に入る場合には最低保証人2名が必要である。 また日本共産党には入党せず直接ソ連共産党に入った者もいる。 尾崎秀美はこのケースである。

ソ連共産党員となると、クートベ(東洋勤労者共産主義大学)で教育を受け、 野坂参三や山本懸蔵の指導下で東洋大学の日本語教師や外国労働者出版所に職を得る。 ソ連共産党員になるとエリート気取りで、日本にいる共産党員を格下扱いにしていた。 32年テーゼの作成に直接関わった日本人ソ連共産党員は、片山潜、野坂参三、山本正美、源五郎丸芳晴の4名である。 最新の研究では、32年テーゼに実質的に関わったのは山本正美だけとのことである。

しかし、彼らが憧れたスターリンはソ連で粛清の嵐を起こし、1000万人を殺害し、 2000万人を粛清する恐怖政治を展開していた。 特に知識人に対する弾圧は熾烈を極め、ことごとく殺害し、自分の政権に楯突きそうな 良識を持った人物は監獄にぶち込み、 それから罪名を考えてつけた。 秘密警察はスターリンへの忠誠のために、逮捕者の数をノルマ化し、そのノルマ達成のために政治犯をデッチ上げて逮捕者を増やし続けた。 そのために、国民に密告制を押しつけ、賞金を付けて奨励するということまでやった。

密告者は愛国者となる。隣人の些細な言動を捉えて、「どこそこの誰は陰でスターリンを批判していた」 といったたぐいの密告を警察にすれば、あとは警察がその是非を問うこともなく逮捕し、裁判にかけ銃殺してしまう。 そうした思想動員の積み重ねの中で、勤労動員が行われ、国家のかかげたノルマ達成に 向けた労働に、 まじめな国民が邁進し、奮闘努力した。 スターリンは、穀物調達危機打開のために、強引な農業の集団化をはかり、農民からタダ同然で穀物を調達し、 都市でそれを高く売ることで利益をだした。 これにより「国家資本」の蓄積をはかったのである。 この利益はスターリンの思い通りに使われ、権力をさらに強めていった。 スターリンは「赤い皇帝」となったのである。

1929年あたりからスターリンが死ぬまでの1953年までの、ソ連の経済学理論は 固定的で教条的で発展性がない。 それをまねたのが戦後の中国共産党の毛沢東による「大躍進政策」では4千万人が餓死した。 さらに毛沢東の復権のため「文化大革命」の名のもとに4千300万人が粛清され、殺害された事実と同じ意図である。 つまり「愚民」だけを残して自己の権力に盲従させる構図であった。

いったい人間社会に「平等」がありうるのであろうか? たとえば4人の人間が働いて40万円の利益を出したら、単純に4等分して10万円ずつ 分けると、人々は平等であるという。 しかし、私はそうは思わない。 企画立案し、日夜営業に回って一生懸命働いたA君と、書類の整理をしていただけのB君、C君と、 お菓子を食べながら電話番をしていただけのD嬢とが同じ10万円の報酬では納得できない。 明らかに能力に長けたA君の給料が多い方が公正である。
共産主義に陥る人々は「平等」という言葉に幻惑されて「公正さ」を認知できない。 ソ連邦国家が「一つの工場」とみなされ、生産手段は「社会化」の名のもとに、国家権力機関が所有し、 生産の結果生まれた財貨はすべて国家のものとなり、国民は、国家から必要とされる財貨の配分を受けるという仕組みである。 そうした分配の仕組みを「平等の分配」と解釈する社会がいかに個人の人間性を否定し、密告社会となるか、地獄を見るまでは人々は理解できなかった。

私はロシアや中国に旅して、いたるところで従業員の「サボタージュ」する姿を見たが、 「まじめに働かなくても給料がもらえる」社会が長年続く道理がない。 国家の機能を停滞させ、いずれは国を滅ぼすのは歴史の必然である。 私は日本共産党の集会に古参の共産党員に誘われて見学がてら出席したことがあるが、 参加している人々はまるで羊の群れのように唯々諾々として幹部の命令に動かされていた。 もちろん、一切の「質問」は許されず、幹部の一方的な演説を拝聴して拍手するだけである。 人間界に完璧な社会などありえない。 不平等でも言いたいことを言い、やりたいことができる「自由」がある方がよりベターな社会であると思うのだが…。

スターリンはモスクワの日本人同士を戦わせて見物していた。 1937年8月以降の国崎定洞・山本懸蔵以下の粛清は、明らかに日本人コミュニティ内部での積年のうらみつらみと疑心暗鬼が、 スターリンとソ連秘密警察の「日本人をみたら偽装スパイと思え」という粛清戦略に組み込まれ、利用されたものである。 彼らの秘密警察KGBファイル中の供述書は、ひどい。 自分をスパイと認めた全く同文のロシア語供述書にそれぞれサインだけさせられたり、 アメリカ滞在中であることが明らかな時期に日本で警察のスパイになったりしている。
世界中の共産党員がソ連のために奉仕するロボットに改造されているのだということに 誰も気がつかなかった。 コミンテルンが掲げた理想は、世界各国に「共産党組織」を作り上げ、その各国内で社会主義革命が追求されることで、 世界革命が永続的に起きて、世界資本主義体制が、共産主義社会へと移行していくためには手段を選ばない。

さてゾルゲ事件は警視庁の特高により数百人の関係者も参考人として取調べを受けた。 検挙されたのは35人。 そのうち起訴されたのは19人である。 1942年(昭和17)年6月に判決が下された。 しかし、西園寺公一には一年六ヵ月(執行猶予二年)、犬養健は事情聴取だけ、と甘い。 皇族や軍人にいたっては事情聴取さえされていない。 そして本命の近衛文麿は五摂家筆頭の貴族であり、天皇家ともつながるとの懸念で 事情聴取さえされなかった。 しかし、これだけの大事件を起こした責任は重く、さすがに首相の座を降りた。 後を継いだ東条内閣は近衛が引いた戦争への道を邁進していっただけである。 冷静な人間ならそれが破滅への道であることが理解できたであろうに…。

ゾルゲ事件は日本の防衛システムの脆弱さを露呈した。 しかし、尾崎秀美らを反戦家ととらえて英雄視する人々が現在の日本に多く存在すること が問題なのである。 いかに当時の政治が軍部主導であったとはいえ、いやしくも日本人が 日本を共産主義に売り渡した行為を認めてはならない。 終戦後のどさくさでソ連が満洲で日本人狩をして80万人以上の罪なき人々を極寒のシベリアで強制労働させ、 思想改造しようとした冷酷な事実を忘れてはならない。 また日本を分断して北海道をソ連領にしようとした。 これらの行為はスターリンにゴマをすって資金提供を受けていた日本共産党に政権を 取らせようと画策した一つの手段である。 二人目の尾崎秀美を出さないためには各個人が見識ある国際人になることである。

(つづく)

(2006 原稿作成)


歴史研究家:岡崎溪子 岡崎溪子ホームページ:http://www12.ocn.ne.jp/~okazaki8/ 「三仙洞探検記」(岡崎溪子著、文芸社) 『おんな独りアフガニスタン決死行』(岡崎溪子著、アルファポリス社)