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【サディズム・マゾヒズム・・・つづき】
ここまで来ると、賢明な読者は、マゾヒズムについても何となく想像できるようになったのではないだろうか。サディズムの場合と同様に、女性的男性と男性的女性が、
<マゾヒストの家庭環境>
(1)女性的男性が母親に憧れを持つ。
(2)男性的女性が父親に憧れを持つ。
ような状況にあったとしよう。サディストの場合の考察と同じように、女性的男性が「女になりたい」という気持ちがあるわけだが、何かにつけて「男であること」を実感させられて願望がくじけるたびに、「女でありたい」という衝動に憧れを覚えるようになると考えられるのである。また、男性的女性が「男でありたい」と願いはするものの、「女であること」を実感させられ、願望がくじけるたびに「男でありたい」という衝動に憧れを覚えていくようになると考えられる。
以上の様な心理状態では、女性的男性は、自分の性行為の相手である「女」に対して、「性行為時における基本心理」として『これで良いのか?「病める日本」の心理学(64)』に述べたように、
性行為のための男女性器は、醒めた目から見れば「汚いモノ」の代表である排泄物を排泄する排泄器と兼用になっているか、またはその近傍に存在する。この汚いモノ及び汚いモノの近傍にある性器は、性的に興奮している状態にあっては、汚いどころか「愛おしいモノ」になってしまう。つまり、人は、平常状態における心理と、性的に興奮している状態における心理は、その価値観が逆転する、という現象を示す動物である。
ということがあるため、「性行為時には、相手と自分は心理的に同一化の状態になっている」という性質があるから、相手の「女」に対して、憧れの気持ちを持って接し、同時に自分が「男」であることへの惨めさを覚えさせられるようになってしまうと考えられるのである。そうすると、惨めな「男」としての自分を、憧れの相手としての「女」から、実際に卑しめて貰いたい、という気持ちになっても不思議ではないであろう。憧れの相手からそんな自分を卑しめてもらうことに、大変な歓びを覚えてしまう。というのは、「惨めな自分」であっても「憧れの相手」から、例えそれが虐待の形であろうと、そんな自分に関心を持ってもらえるということには、特に性的に興奮している状態ではなくとも、ある程度の歓びとしては感じうるものではないだろうか。
同様にして、男性的女性は、自分の性行為の相手である「男」に憧れの感情を持って接し、そんな人から、惨めな「女」としての自分を卑しめてもらうことに大変な歓びを覚えてしまう、ということになると考えられるわけだ。すなわち、
<マゾヒズムの本質>
マゾヒズムというのは、人間の肉体の性(セックス)と精神の性(ジェンダー)が異なっているとき、この違いから生じる心理的葛藤を軽減するために、肉体の性(誰の目にも明らかな性)が、精神の性(自分個人の願望としての性)を抑圧しようとする行為である。すなわち、マゾヒズムとは、傍目には、自分をを虐待して貰っているように映るが、その内実は、性行為時には相手と心理的にも一体であることからして、相手を虐待しているこういであり、サディズムと表裏一体なのである。
ということになる。やはりサディズムの場合と同じように、
なぜ肉体の性(セックス)が精神の性(ジェンダー)を抑圧しようとするのかと言えば、肉体の性は、自他共に客観的に認識できることであり、誤魔化しようのない厳然としたものであるのに対し、精神の性は、いくらでも誤魔化しが利くものだからであると考えられる。逆に、精神の性(ジェンダー)が肉体の性(セックス)を抑圧してしまう現象は「性転換手術」であることは言うまでもないであろう。
ということになる。
以上のようにして、「性行為の変形行為」として、サディズム、マゾヒズムの心理を理解できるようになったわけであるが、注意すべきことが三つある。
第一は、サディストならば、誰でも彼でも苛めたくなるのか、というと、決してそうではないこと、また同様に、マゾヒストならば誰彼構わずに苛めて貰いたくなるかというと、決してそうではないこと、ということである。考察したように、それなりの心理的要素を持った人が相手をして必要であること、また一種のゲームのようなものであることが特徴で、本当に苛められたり苛めたりすることだけを望んでいるのではないのである。心理的に共通するものを持たず、誰彼構わずに暴力を振るったりするのは、また別の心理機制によるものである。
第二は、サディズム、マゾヒズムは、性的に興奮した状態おける現象である、ということだ。第一のことを性的に興奮した状態においてという条件を付けて考えるのならば、それは成立すると考えられる。というのは、特に知り合いではなくとも、その様な性向を持った人同士が集まれば、まあ極端ではあるけれども、誰彼構わずとなってしまうこともあり得ないことではない、ということである。
第三は、性行為の変形行為は、生活環境と親子関係の問題から生じてくる可能性があるということである。自分達の子供がそうなってしまうかどうかは、自分達が、無意識にではあるが、自分達が決めてしまう、ということである。しかし、自分達だって、そんな自分達になるように、自分達の親がしてしまったのである。その親だって…。これは、いってみれば「運命」と言える。私達は、変な、あるいは好ましくない運命を背負って、私達自身が、また子孫達が困ってしまうことがないように、毎日の生活を正しいものとしていく必要があるということになるわけだ。
SMに関しては、これは運命であろうがなんであろうが、当事者間の問題である。SMである人とそうでない人のカップルでは、どちらも心理的葛藤を抱えてしまうことになる。互いが互いの心理的状況を受容できない場合には、問題として発覚するようになる。例えば、一方が他方のサディズムを受容できなければ、それは「家庭内暴力 Domestic Violence, DV」として発覚することとなるであろう。あるいは一方が他方のマゾヒズムを受容できなければ、不倫・浮気として発覚したりするであろう。
いずれにしても、私流ではあるが、
<<病気の定義>>
本人及び若しくは本人と生計を同一にする者が、第三者(専門家)の援助を必要とするほどに、心身の不調・苦痛を覚える状態、若しくは、その様な状態になると予見される状態。
ということにならねば良いのである。
(つづく)
(2001/6 原稿作成)
又吉正治
昭和22年 熊本生まれ
S45 工学士(電気工学、静岡大学)
S55 医学博士(医用生体工学、東京大学)
H07 メリーランド大学大学院
家族療法研究所主宰
メリ−ランド大学アジア校非常勤講師
故・荻野恒一博士の晩年最後の弟子として
文化精神医学・精神分析を学び、現在は、
日本文化に基づく心理学理論の体系化と
実生活に活かせる心理学の構築に専念中。
連絡先
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